以下は門 博文 衆議院議員が わかやま新報 に寄稿された内容です。

陸奥宗光。

 各方面の熱心なお取り組みの結果、最近ではこの名前を聞かれてもより多くの皆さんが郷土の偉人だと理解してくれるようになりました。
近代日本の礎をつくり特に外交の舞台で多くの業績を残された人物です。この陸奥翁の偉業を顕彰しようということで和歌山市の岡公園に立派な立像が建立されたのが昭和46年。ちょうど明治から100年を迎える頃に行われた事業の一環であったそうです。多くの先人たちが志を集めこの像は建立されました。そして本年、明治より150年を迎えるにあたり私は素晴らしい瞬間に立ち会うことができました。
去る3月21日春分の日、和歌山のそして日本の未来を担ってくれる多くの子供たちとともにその立像のたもとに桜の木を植樹させていただきました。

 この桜の苗木がここに至るまでの物語を紹介させていただきたいと思います。さかのぼること約2年前、私のもとにひとつの依頼が届けられました。外務省の前庭の陸奥宗光像の周りに植えられている桜の木を分枝してもらいたいということでした。お恥ずかしい話ですが当時、私自身、陸奥像が外務省にあることを知らず慌てて現地に向かったのを鮮明に覚えています。
初めて目にする銅像は誠に立派なもので日本の将来を凛と見据えた翁の姿がそこにありました。そして確かに周りには立派な桜も植えられておりました。
また、なぜこの木を分けて欲しいのかと依頼者に尋ねましたところ、岡公園の陸奥像のたもとにその桜を植樹したいということでした。現在は整備がされ三年坂からも陸奥像が見えますが、以前はこの前に児童女性会館があったため通りからは見ることができませんでした。それ故に草なども生え、手入れが滞った状況が続いていたようです。
しかし周辺の整備が進むにつれ、この像周辺も綺麗にし、改めて陸奥翁を顕彰しようという機運が一気に高まり今回の桜の植樹作戦につながったということです。

 早速、私は外務省に掛け合いこの件を伝えました。しかしなかなか良い返答が返って来ません。予測はしておりましたが枝一本とはいえ国の財産の一部であるので簡単にお譲りするわけにはいかないとのことでした。
和歌山の熱心な皆さんのことを思うと何とかしなければならないと担当の課長さんに何度も何度も掛け合いましたがらちがあきません。
幸い当時、私は党の外交部会の部会長代理を務めておりましたのでこの際はと思い直接、岸田大臣(当時)にお願いをさせていただくことにしました。
すると大臣はよくご理解くださり「わが国の外交官や外務省の職員は陸奥宗光翁に対して最大の敬意を抱いている。まさに近代日本の外交の祖としてその偉業を讃え前庭にまた大臣執務室に唯一の人物として像が置かれている。その陸奥翁の郷土の方々が顕彰のためにとのお申し出なら喜んでお分けしましょう」ということで急転直下、ご決裁くださいました。その時は飛び上がるほどうれしかったです。

 そして一昨年の11月10日、外務省飯倉公館にて「世界津波の日」の制定を祝うレセプション(掲載者注:ここをクリックして動画を再生)の場で岸田大臣から直接、尾花市長に桜の木を贈呈していただきました。そしてその枝を大切に育てていただいてこの度の植樹となったわけです。

 当日は雨の予報でしたが植樹のタイミングだけ不思議に雨が上がり薄日も射す中で関係者と多くの子供たちとでスコップを手に無事植樹を終えることができました。
天候の好転はまさに陸奥翁が天から喜び励ましてくれているようでした。政治家にはさまざまなものが求められます。私はたえずふるさとの発展を願います。道路をつける、小学校のトイレを直す、さまざまなこともありますが、この度はふるさと和歌山の偉人を後世に伝える物語のお手伝いができました。まさに政治家冥利に尽きる出来事でした。これからもさまざまな方面でしっかり頑張ります。

(門 博文 衆議院議員の寄稿文を一部、段落と改行を付けさせていただきました)
      わかやま新報の原文はこちら

以下は ニュース和歌山 の記事原文はこちら

陸奥宗光顕彰する市民が植樹

 明治時代、諸外国との不平等条約の改正に尽力した和歌山市出身の陸奥宗光(1844~97)。同市岡山丁の岡公園にある銅像近くに3月21日、外務省から贈られた桜の苗木を市民グループ「『陸奥宗光 外務大臣』の功績を教育に活かす実行委員会」が植えた。

 陸奥の没後120年を迎えた昨年、シンポジウムや勉強会を開いた同会。外務省の敷地内にある陸奥の銅像周辺で毎年、見事な桜が咲き誇ることを知り、外務省へ「陸奥の郷里でも桜を咲かせたい」と依頼した。これをきっかけに一昨年、市に枝木が贈られた。

 苗木に成長したソメイヨシノ1本を今回、陸奥の銅像裏に植えた。同会主催の勉強会に参加した小中学生や関係者ら約50人がスコップで根元に土を入れた。同会は「今年は日本がメキシコと初めて平等条約を結んでから130年。7月に学習会、秋にはイベントを開きたい」と描いている。


解説(私見:平田)

 当会は、和歌山県民の大多数がご存知でない “陸奥宗光伯” を顕彰して参りました。
 その一環として、岡公園の『陸奥宗光先生乃像』をもっとPRするにはどうしたら良いかを話し合っていた時に出た、夢(外務省の『陸奥宗光公像』のように、岡公園の陸奥像をたくさんの桜で囲みたい)が現実になりました。

 その一番の功労者は上記のとおり衆議院議員の門 博文 先生です。門先生の機転と人脈がなかったら恐らくこのような快挙はなし得なかったと思います。改めて門先生のお骨折りに心から感謝申し上げる次第です。

 明治初期(廃藩改革の頃)、陸奥伯と津田出公のお働きでなんと、日本で5本の指に入るくらい産業が盛んだった和歌山県。この話をすると多くの和歌山県民はびっくりされます。
 また、有名な実話ですが、井上馨外務卿が大金をはたいて鹿鳴館を作り西洋社会の仲間入りを模索しますが、結局は悲願の不平等条約の改正までこぎつけることはできませんでした。

 ところが、駐米全権公使としてワシントンに赴任した陸奥伯は、単身ヨーロッパに渡って西洋の文物を学んだ経験を活かして、わずか半年で明治21年11月30日にメキシコと平等条約(日墨修好通商条約)を結びます。不平等な条約に脅かされていたわが国にとって、平等に扱われる条約を締結出来たことは、暗闇の中のわずかな灯りを晴天の輝きに変えたほどの希望を抱かせる出来事でした。わが国にとって、重要な突破口を陸奥公使(当時)が開いたのです。

 陸奥伯はその後、明治23年に農商務大臣を経て、同25年に外務大臣に就任。同27年にイギリスと日英通商航海条約を締結し、わが国初めての不平等条約の改正に成功します。幕末から明治初期に至る間に、西欧列強15か国と結んでいた不平等条約をすべて陸奥外相の間に改正しました。

 当時の世界情勢で言えば白人こそが人間であり、黄色人種は動物くらいしか思っていない西欧列強国が作った国際社会の常識の中で、まさに奇跡を生んだのです。 

 これは、陸奥伯の兄貴分=坂本龍馬さんが夢見た「平等・公平な社会の実現」と言えるのではないでしょうか!!
 私達も陸奥伯のことを学び、お伝えすることでさらにたくさんのことを教えてもらっています。いずれは書籍にする必要がありますが、今はたくさんの事実を集めている最中です。

 

 和歌山県民は特に郷土愛が強いと他県出身の私は感じます。
だからもう少し、和歌山の英雄『陸奥宗光伯爵』を学んで頂けたら幸いです。
そして、子供達に陸奥宗光伯の自慢をしてください。

 長文でしたが最後まで拙い文章にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 今後も陸奥宗光伯の顕彰活動を続けて行きたいと思います。

秋にはイベントを計画しておりますので、お楽しみにお待ち下さい。